『教誨師』――死刑囚に生涯向き合い続けた宗教家の記録
近く処刑される運命にある死刑囚と対話を重ね、最後は死刑執行にも立ち合う教誨師(きょうかいし)。半世紀にわたって教誨師を務め、心身に不調をきたすほどの苦しみの末、僧侶がたどり着いた境地とは。「わしが死んでから世に出して下さいの」という約束に基づき、その死後、2014年に出版され、それまで日の目を見なかった教誨師という存在を世に知らしめた名作。
悪人こそが救われる
本書は一人の僧侶の死と引きかえに、世に出された。病魔におかされ、余命を悟った人間だからこそ、教誨師の仕事についてここまで赤裸々に語れたのだと思う。本書が出るまで、その仕事は一般にほとんど知られておらず、ヴェールに包まれた存在だった。
悪人こそが救われるとする浄土真宗の重要な思想「悪人正機(あくにんしょうき)」が、本書を貫く柱になっている。阿弥陀仏の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが救済の対象だという考え方。善人面していても、全く罪を犯したことがない人、心の中に悪い考えを抱かない人はいない。自分は善人だと思い込むような人間でも救われるのだから、悪人だと悟っている人間はなおさら救われる。
死刑立ち合いで崩れる使命感
最初、高い理想をもって教誨師としての一歩を踏み出した若い僧侶。死刑囚の愚痴を聞き、被害者への供養や、身勝手で許されない犯行への反省を促そうと努力する。逆に噛みつかれたり、時に死刑囚の恨みの深さ、身勝手さにおののいたりしながらも、教誨つまり、教え諭す仕事に人生をかけようとした。
しかし、仕事を始めて数年後、初めて絞首刑に立ち会ったことで、彼の中の何かが崩れていく。
きれいごと抜きの凄み
きれいごとではない。単なる宗教講話ではない。オブラートに包まず、死刑を語るその言葉には凄みがある。生身の人間の死と向き合い続けたからこその、重みもある。戦後の教誨師の歴史の生き字引と言っていい僧侶が、一身に背負ったものが吐露される。
本書は、今だからこそ読めるもの。余命いくばくもないと悟り、切々と語った告白を、ぜひあなたの目で読んで、考えて頂きたい。
本書により教誨師という職業が注目されることになった。2018年、大杉漣主演映画『教誨師』が公開されている。
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